ホームトラベル1300年以上前の多胡碑で見つかった十字架はどこにいったか?

1300年以上前の多胡碑で見つかった十字架はどこにいったか?

上野三碑

群馬県高崎市には山上碑・多胡碑・金井沢碑(総称「上野三碑」)があります。「上野三碑」は2020年ユネスコ「世界の記憶」に登録されました。

そのうちの多胡碑には和銅4(711)年に多胡郡が設置されたことを記念して建てられたことが書かれています。

多胡碑

弁官符上野国片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊
(現代語訳:朝廷の弁官局から命令があった。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡としなさい。和銅四(711)年三月九日甲寅。左中弁正五位下多治比真人による宣旨である。太政官の二品穂積親王、左太臣正二位石上(麻呂)尊、右太臣二位藤原(不比等)尊。)

多胡碑の謎

多胡碑には大きな謎があります。
江戸時代に多胡碑を掘ったところ、十字架と古銅券が発見されたのです。

肥前国平戸藩の藩主であった松浦静山(1760~1841年)は彼の随筆『甲子夜話』で、このことを取り上げています。
多胡碑で発見された十字架を上州の代官が江戸長崎屋の旅舎でオランダ商人イサク・ティツィングに見せ、ティツィングは当時禁制の品であった十字架を鑑定させることに戸惑ったとされます。残念ながら十字架の形状や素材についての言及はありません。

また、古銅券には”JNRI”と書かれており、ある人が調べてキリストが処刑される図に見られることを発見したが、意味はわからなかったと松浦静山は書いています。

『甲子夜話続編6』巻73

“JNRI”はイエス・キリストの磔刑で罪状板に書かれた「ユダヤ人の王ナザレのイエスIesus Nazarenus Rex Indaeorum」の頭字語”INRI”と同一のものと考えられます。Iの代わりにJも使われていました。

イメージ:景教の十字架
『タウベリショフスハイムの祭壇画』 マティアス・グリューネヴァルト

江戸時代にキリシタンが残したINRI石碑は大分県などで見つかります。迫害により破壊されたものがほとんどです。

https://taketa.guide/christian-taketa/gallery/bunkazai/bunkazai.html
https://www.travel.co.jp/guide/article/43905/

このことから、古代に景教徒が来ていたという説や日ユ同祖論に導く説があります。
松浦静山自身も景教との関連について考察しています。
果たしてどうだったのでしょうか?

松浦静山による作り話?

松浦静山による作り話の可能性はないでしょうか? オランダ商人イサーク・ティツィングは実在する人物であり、松浦静山もオランダ商人が出入りする平戸の藩主だったこともあり、そのような話を聞けた可能性はあります。多胡碑の碑文も記述しており、具体的な話として示しており、伝聞ながらも、完全にでっち上げたものではなさそうです。

松浦静山は多胡碑の下から十字架、多胡碑のそばにある石槨(石棺)から「JNRI」の銅券が見つかったと書いています。十字架が同じ石槨から見つかったわけではなく、多胡碑の下から見つかったようです。多胡碑の近くには確かに横穴式古墳があり、ここで「JNRI」の銅券が見つかったのかもしれません。

オランダ商人イサーク・ティツィング

イサーク・ティツィング(Isaac Titsingh:イサーク・ティチング、イサーク・チチングなどと表記することも)はオランダ商人であり、1779~1784年に日本にオランダ商館長として滞在しています。オランダ商館長は一年に一度江戸参府を行う必要があり、1780年と1782年に2度江戸に参府しています。よって、松浦静山の話が正しければ、1780年と1782年のどちらかに上州の代官に会ったと思われます。
上州は今の群馬県であり、多胡碑があったのは高崎藩だったので、高崎藩の代官であった可能性が考えられます。

江戸時代、多胡碑は『俳諧多胡碑集』(1773年)などで紹介され、注目されたようです。

http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2018020600023/files/tagohi1.pdf
注目の高まりを受けて、1770年代に役人が調査や整備を行った可能性があります。

“J”という文字は古典ラテン語にはなかった

“J”という文字は古典ラテン語にはありませんでした。”J”という文字は14世紀になってから現れるようになり、一般的になるのは16世紀以降となります。西暦700年代に”J”が書かれているのはおかしいということになります。
781年に建てられた中国の大秦景教流行中国碑は景教)の教義や中国への伝来などが刻まれています。この石碑の建造時期は多胡碑が建てられた時期に近いですが、碑文は漢文とシリア文字で書かれ、ラテン語はありません。シリア文字が書かれているのは景教の元となったキリスト教の教派であるネストリウス派は異端扱いとなり、サーサーン朝ペルシア帝国に逃れた背景があるためです。「JNRI」の銅券が700年代のものなら、ラテン語「J」の従来の見解が覆り、景教の歴史的な大発見となります。

また、松浦静山の時代から1000年以上前の物であるのに、古さに言及されていないことも気になります。十字架の素材は書いてありませんが、古銅券は銅板であり、サビと腐食が進んでいなかったのでしょうか。周辺の遺跡からもキリスト教や景教に関連する遺物が見つかっていないことも気になるところです。

群馬県の隠れキリシタン

「JNRI」の表記が中世になって現れていることから、江戸時代の隠れキリシタンが十字架や銅券を多胡碑に置いたという可能性が、多胡碑で言及される羊(一説に羊太夫とされる)が所有するキリスト教の遺物だったという可能性よりも高いと思われます。
高崎近辺には隠れキリシタンが数多くいたとされます。他にも沼田や鬼石町が隠れキリシタンが多くいたことで有名です。
https://www.archives.pref.gunma.jp/storage/app/media/support/document/gakko-siryo016.pdf

十字架や銅券を多胡碑になぜ置いたのか? 聖書で羊はよく例えに出され、羊太夫とキリスト教の関連性を見出したのかもしれません。羊の名前に救いを求めたのかもしれません。残念ながら、真相は闇の中です。

キリスト教は隠れキリシタンを含め、INRIを使うことが主流です。聖書において、キリストの磔刑の際に罪状板に実際に書かれたラテン語を考えると、INRIが正当だからです。逆に考えると、JNRIを使った所にヒントがあるかもしれません。実はラテン語ではなく英語などのアルファベットだと考えるとどうでしょう。下記のポルトガル語ソースを見ると、JNRIを書くように言われたとあり、現代でもJNRIの表記を書くことがあるようです。全てポルトガル語表記で書くと、表記はJNRJとなります。スペイン語でもJNRJです。ちなみに、ギリシャ語表記ではINBI(“Ἰησοῦς ὁ Ναζωραῖος ὁ Bασιλεὺς τῶν Ἰουδαίων”)だそうです。Iをラテン語表記ではなく、ポルトガル語またはスペイン語表記などにした可能性は考えられます。

https://www.abiblia.org/ver.php?id=8500

ポルトガル語などの可能性を考えると、隠れキリシタンか、もっと以前の戦国時代にいたキリスト教徒なのでしょうか。1603年にイエズス会の宣教師らが編纂した『日葡辞書』で確認すると、Jの文字はまだ使われておらず、まだ一般的ではなかったようです。そう考えると、松浦静山の生きていた時代に近づいてくるのではないでしょうか。

多胡碑で見つかった十字架はどうなった?

もし、十字架や銅券が見つかれば、年代など、様々な謎が解けるかもしれません。上州の代官はこれらがキリスト教に関連しそうだと理解して、どうしたのでしょうか? 

本記事のタイトルに戻りますが、江戸時代の迫害により、キリスト教関連の物は徹底的な破壊の憂き目にあっています。大切に保管された可能性よりも、破壊されてしまった可能性のほうが高いかもしれません。

藩で保管されていたなら、廃藩置県で日の目を見ていてもおかしくないですが、そのような話は残念ながらないようです。他の場所で保管されているなら、関連性の高い場所を考えると、多胡碑に関連する羊太夫を祀る羊神社が群馬県にあります(※羊神社は名古屋にもあります)。はたして、お宝が眠っているかはわかりませんが。他にも多胡碑ゆかりの神社として、大宝年間(701~)に創建され、境内に多胡碑のレプリカを置いている辛科神社もあります。多胡碑に行ったなら、これらの神社に足を運んでもいいかもしれません

KAMUYAI編集部http://kamuyai.com
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