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長久保赤水の日本地図

はじめに

こちらの地図は江戸時代に描かれたものです。現代で見慣れた正確な日本地図のように見えるので、伊能忠敬が作成した地図だと思うのではないでしょうか。

実はこの地図は「改正日本輿地路程全図」(通称「赤水図」)であり、作成者は、長久保赤水(1717~1801年)です。伊能忠敬(1745~1818年)が作成した「大日本沿海輿地図」(通称「伊能図」)より約40年早くに「赤水図」は作成されています。

下記のサイトでは「赤水図」を拡大して確認できます。

https://www-user.yokohama-cu.ac.jp/~ycu-rare/views/WC-1_2.html?l=1&n=0

長久保赤水(1717~1801年)

伊能忠敬が作成した地図は国家機密であり、庶民が見ることはできません。旅の地図として使われていたのは「赤水図」でした。吉田松陰も東北遊歴の旅において、「赤水図」をお供に使っています。伊能忠敬も測量でこの地図を携帯していました。

農民の子として生まれた長久保赤水

長久保赤水は現在の茨城県高萩市に生まれました。農民の子として生まれますが、青年期に学問を志します。農閑期の間、医者兼漢学者である鈴木玄淳の家塾に学んでいました。45歳のとき、農耕と漢学の勉強に加えて、日本地図編集を思い立ちます。日本地図が完成したのは赤水58歳の時のことでした。4年後の1779年、「赤水図」が発行されます。

「赤水図」以前、浮世絵師の石川流宣による日本図「流宣図」がベストセラーで普及していました。「流宣図」を見ればわかりますが、明らかに正確性を欠いています。古式の日本地図である「行基図」の形に近いです。1枚刷の最古の日本地図とされる「南贍部洲大日本国正統図」もそうです。「流宣図」が画期的なのは地理情報が豊富に書き込まれていることです。城・小城・屋敷城が描かれ、それぞれに城主名と石高が書かれています。各地の湊を結ぶ航路とその距離、陸上交通の宿間の距離、名所旧跡の情報もあります。海岸線は不正確ながらも情報が豊富でベストセラーだったのもうなずけます。

「流宣図」
「流宣図」奥州拡大図

「赤水図」はどのように製作されたのか?

「赤水図」は「流宣図」を押しのけ、ベストセラーになります。重版も何度もされ、情報が修正されていきました。長久保赤水自身は測量をほとんど行わず、江戸幕府が作製した日本図、多くの書物の記述や口コミ情報を集めて、製作したものと考えられます。

「赤水図」会津の拡大図。非常に細かく書き込まれている

赤水図の前に作成された「改製扶桑分里図」は森幸安が製作した「日本分野図」を基にしているという指摘もあります。ただし他の多くの情報も参考にされ「赤水図」が製作されたようです。

https://www.chizu-seisaku.com/wp-content/uploads/2018/03/6fa703dea9058cbcd938af9f486d2583.jpg
森幸安による「日本分野図」

また江戸幕府の地図として、「国絵図」も参考にされたと思われます。幕府は各藩に命じて「国絵図」を作成させ、日本総図を作成しています。寛永、正保、元禄、享保の各時代で国絵は作られました。

測量術の心得のある藩士や農民がおり、「廻り検地」という測量術は、全国的に普及していました。水戸には彰考館があり、国絵図も保管されていました。1864年、水戸天狗党の挙兵で、日本総図の写しを越前まで持っていき、親切にしてくれた農民にお礼として渡しています。

https://mobile.twitter.com/fukui_osaka/status/1410182710321053698/photo/2

慶長肥前国絵図 縦234cm 横249cm https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/149314
「慶長日本総図」:製作は寛永年間のものとされる
「正保御国絵図」
元禄日本総図 琉球が描かれる

『改正日本輿地路程全図』の柴野栗山の序文には、「西は肥前から長崎、東は奥州へと自分の足で歩いた。日本地図を障子に貼り、旅人が来れば招き入れ飲食でもてなした。旅した場所の地理を聞き、図を書かせ、書物との検証を重ねた。研究を深め20余年をかけてこの地図を完成させた」とあります。

奥州への旅は赤水44歳のときで、道中で磁針器を用いて方向を調べ、宿場町や名所旧跡などを記録しています。32年後、『東奥紀行』として発行されます。

『東奥紀行』

1767年、赤水51歳のとき、庄屋代理で長崎行の役を命じられます。長崎では清国商館と和蘭商館の風習を記録。赤水没後、『長崎行役日記』として発行されます。長崎の清館で清国人と漢詩交換をしています(後、『清槎唱和集』として発行)。

『清槎唱和集』

下関では、ベトナム南部に漂流した人々から話を聞き、現地の風習などを記録します。漂流民は水戸藩の人たちであり、赤水は、漂流民引き取りの役人と同行していました(『安南国漂流物語』として発行)。

『安南国漂流記』

http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_annan_main.html

地図完成までの20余年というのは膨大であり、実際に長久保赤水が残した資料からは、各地域の資料から地理の考証を行っていることが伺われます。

例えば、奥州の簡略図を見ると、距離修正を検討し、修正も行っています。修正の種類も朱字、胡粉と和紙、付箋などさまざまです。「一つ目の人」や「大鯨」など不思議な生物の情報も記しています。

国図を自分で縮少して資料として用いています。学友の柴田平蔵から各藩の国絵図などを閲覧させてもらうことができました。そして、国図から地名や日本の形状を考証していました。

また、渋川春海の測定した緯度を活用しています。しかし、経度の経線は伊能忠敬が「垂揺球儀」という振り子時計で測るまで、実証されていませんでした。よって、「赤水図」の縦線は東西および南北を等距離の方眼で表す中国古来の方格図のようなものでした。

各地域の資料を基に、苦心の末、「赤水図」は製作されました。初版の発行から15回以上も改訂を重ね、修正が加えられていきます。初版は白黒でしたが、その後は国ごとに色分けされた極彩色となります。その圧倒的な情報量と正確さ、折りたたまれて携帯性に優れた地図として、江戸後期から明治まで80年にわたり使われていきます。

長久保赤水のさまざまな業績

赤水図の他にもさまざまな業績があります。

1777年、61歳の時、水戸藩主徳川治保の侍講となり、藩政に上申を行います。

1783年、清国地図『大清広輿図』:中国の『大明一統志』を参考に編集されました。地理情報、城、地名などが記されています。この地図は江戸中期~後期にわたり、各藩の教育用に利用されたそうです。

『大清広輿図』

https://www-user.yokohama-cu.ac.jp/~ycu-rare/views/WC-2_11.html?l=4&n=96

1785年、世界地図『改正地球万国全図』:大判や小判など数回発行され、江戸時代の庶民の間に流布されました。

『改正地球万国全図』

https://www-user.yokohama-cu.ac.jp/~ycu-rare/views/WC-0_12.html?l=1&n=0

1786年、赤水70歳『大日本史』の地理志編纂に従事:旧事本紀・続日本紀・常陸風土記など膨大な資料を漢訳し、10数冊におよぶ草稿を作成しました。赤水は地理学者だけでなく、漢学者としても優れていたのです。知人らとの音信を断ち、編集に専念し、郷里の赤浜村に帰ったのは82歳のときであり、85歳で亡くなります。残念ながら、草稿は詳しすぎて『大日本史』では採用されず、明治時代になって、『大日本史』の「国郡志」として採用されました。

海外でも普及していた「赤水図」

伊能忠敬の地図は明治直前の1867年に刊行されました。シーボルトが伊能図の写しと考えられるものを持ち帰り、海外では日本よりも早く、1840年に刊行されます。

しかし、それまで西洋版の日本図は「赤水図」系の図が普及していたのです。ヨーロッパの船は正確に作動する時計「クロノメーター」を搭載し経度を測定できたため、赤水図を基に経線を描いた地図が製作されています。

クロノメーター

伊能忠敬が有名になったのは、明治になってからの顕彰事業のおかげでした。明治44年、長久保赤水も明治新政府から大日本史の地理志編纂や地図作成の功により、従四位が贈られました。しかし、「赤水図」の功績を考えると、まだまだ足りないと言えるでしょう。最近では中学の地理の教科書にも長久保赤水が登場したとニュースになりました。今後資料が研究され、日本地図の歴史において、どう評価されていくか注目されます。

「百歳まで生きても、学問をせぬ者は生きているに値しない」と長久保赤水は言ったそうです。

死ぬまで勉学を続けた赤水を見習いたいですね。

参考文献

流宣図と赤水図 三恵社

鎖国時代 海を渡った日本図 ‎ 大阪大学出版会

https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/134/witness.html

https://www.kokudo.or.jp/grant/pdf/h21/uesugi.pdf

http://hist-geo.jp/img/archive/127_2.pdf

https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/21700/1/toshokankiyo_25_117.pdf

KAMUYAI編集部http://kamuyai.com
本質を突いた、長く読まれる記事を目指します。

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