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東照宮に見え隠れする明智光秀 前編

東照宮を巡る3本のライン

静岡県静岡市の久能山東照宮は1617年1月に創建された徳川家康を祀る神社です。

久能山東照宮には「東照宮を巡る3本のライン」が紹介されています。

https://www.toshogu.or.jp/link/pdf/leaflet.pdf

1本目は久能山東照宮、富士山、群馬県の世良田東照宮(徳川氏祖先の地)、日光東照宮を結ぶライン。

2本目は久能山東照宮から駿府城、鳳来山東照宮、岡崎城(徳川家康の出生地)、京都を結ぶライン。

3本目は日光東照宮の真南に江戸城のライン、そして陽明門の真上に北極星が輝くというもの。

実際に線を引いてみるとどんなものなのか確かめてみます。地図で線を引くというのは恣意的で、都合よく場所を選んでおり、バイアスがかかった線になる可能性があることをご了承ください。Googleマイマップでは地図に線が引けるので、久能山東照宮と日光東照宮の奥宮を結ぶ線を引きます。

縮小してみると富士山、群馬県の世良田東照宮を通っているように見えます。この1本目の線は関連性がありそうに思えます。

しかし、拡大してみるとドンピシャというわけではないことがわかります。世良田東照宮は近くを通りますが、富士山は山頂を通りません。日光東照宮の御本社を線で結んでも同じ結果でした。

富士山(不死の山)であり、『竹取物語』では不老不死の秘薬を山頂で焼いたシーンがあるように、古来から富士山の山頂は神聖視されてきました。そのため、富士山山頂を通らないのは意外な結果です。

線は世良田東照宮の近くを通る
線は富士山山頂を通るわけではない

富士山を通らないライン

久能山東照宮から直線で引いた先に日光東照宮(1617年創建)や世良田東照宮(1644年創建)を建てると考えたとき、富士山山頂は方角を測るのに優れたスポットのように思われますが、富士山山頂を通る線とはなりませんでした。
昔の時代なので、富士山や世良田東照宮がドンピシャの位置にないのは測量の精度が悪いせいと言えるかもしれません。
寛永15年(1638年)に製作されたとされる江戸時代の地図でも線を引いてみると、富士山山頂は通りません。伊能忠敬の地図とは違い、この時代の地図はまだ精度が高くないこともわかります。

この「慶長日本図」は寛永15年日本図の写とされる
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjca/48/3/48_3_3_1/_pdf
日光付近の拡大図
富士山付近の拡大図
日光から線を引くと富士山の東側を通ってしまう

2本目の線は久能山東照宮から鳳来山東照宮、京都へのラインです。久能山東照宮から鳳来山東照宮で実際に線を引いてみると、確かに京都に至ります。ただし、岡崎城や駿府城は線からかなり離れる印象です。

久能山東照宮の徳川家康は西を向いてまっすぐ座った姿勢で土葬されたとされ、神廟は西を向いています。『江戸の都市計画―建築家集団と宗教デザイン』(講談社刊)によれば、久能山奥社宝塔にて日光東照宮へのラインとを参考に松平家の菩提寺である大樹寺、京都の南禅寺にある金地院東照宮へのラインが連結されるそうです。久能山奥社から金地院東照宮へのラインを結んでみましたが、大樹寺を通って、鳳来山東照宮をドンピシャに通るわけではないようです。

京都にある南禅寺の金地院東照宮
大樹寺

3本目は日光東照宮の真南に江戸城のラインです。確かめてみると、日光東照宮の唐門から陽明門から参道へと直線に引くと江戸ではなく、神奈川県の横浜方面に向かうことがわかります。江戸城の北は日光市に近い部分を通りますが、真北というわけではないのです。

日光東照宮から真南に向かうと江戸ではなく、横浜付近を通る

磁石が指す北

磁石が指す北と方角上の真北には差があります。これを偏角といい、場所によって異なります。関東では西に約7度ずれています。このずれは年代によって変動し、今この瞬間も変動しています。

伊能忠敬の時代はほぼ差がなかったそうです。では東照宮の建設された江戸時代初期はどうだったのでしょうか。研究によれば、明暦・万治頃(1655‐61)は東に6.5~7 度ずれていたようです。それより数十年さかのぼって、東に6度ずれていたなら、日光東照宮奥宮と川越にある喜多院を通る線となります。これまた恣意的な線の引き方となることを断っておきますが、この線も興味深いです。喜多院は天海が住職をつとめただけでなく、喜多院の南側には三大東照宮の一つ仙波東照宮が隣接しています。

謎の明智寺

1本目の線でドンピシャの位置にある場所があります。それは秩父にある明智寺です。日光東照宮の奥宮と久能山東照宮を結ぶライン上にあります。明智寺の創建は1191年であるため、各地の東照宮よりも以前に存在しています。富士山よりも重要視されたのではないかと勘ぐってしまいます。

室町時代中期にあたる1488年に制作された『長享二年秩父札所番付』(子鹿野町法性寺蔵)は秩父札所を記した最も古い史料です。明智寺は秩父札所29番「明地」として記されています。秩父札所は西国・坂東と同じ33ヶ所でしたが、江戸時代の初めに34ヶ所となったとされます。江戸時代になってから、江戸からの巡拝者の便宜をはかり、番付も変わりました。秩父札所29番「明地」は、9番明智寺となりました。天海は秩父神社の大改築に関わっていることから、この番付変更にも関わっているのではないかと言われますが、定かではありません。秩父神社をモデルケースとして、後に日光東照宮の建造につながります。

明智寺に行ってみるとわかりますが、明智寺から久能山東照宮方面を見ると、武甲山が立ちはだかります。建久二年(1191年)、明智禅師がお堂を建立し、如意輪観音像を置いたとされます。『長享二年秩父札所番付』では「明地」とありますが、元々は明智禅師が建てたお寺ということで明智寺と呼ばれていたようです。

『観音霊験記』によれば、天正の頃に村に住んでいる兵衛という若者がお堂で老僧に口授された文を唱えると、まばゆい光を放つ星が飛来し、母親の盲目を治したという話があります。その話を聞いた領主が「明星山」という山号をつけたそうです。『観音霊験記』の別の話として、一条天皇の皇后が難産で苦しんでいたとき、恵心僧都(原信)が作った像に祈願したところ、元気な男子が生まれました。この像が飛び去っていきましたが、明るい星の導きで明智寺の地で見つかったそうです。そのため、明星山という山号がつけられたといいます。

明智寺は日光東照宮奥宮と久能山東照宮を結ぶライン上に浮かぶ
明智寺 写真の観音堂は平成になってから再建されたもの
久能山東照宮方面には武甲山が見える

ラインを引く方法とは

これまで3本のラインを見ましたが、場所のつながりに関連性が強いと感じたのは1本目のラインでしょうか。世良田東照宮もドンピシャとは言わずとも近い位置にあり、意図を感じます。明智寺があるのは偶然としても、久能山東照宮から日光東照宮まで224kmに及ぶ線上に世良田東照宮を置くのは相当な難易度だと思います。日光二荒山神社と天海の墓所がある慈眼堂を結ぶ線に世良田東照宮があることから、世良田東照宮はこちらのラインを意図していたのかもしれません。このラインは世良田東照宮まで60kmほどあります。

日光二荒山神社と天海の墓所がある慈眼堂の先に世良田東照宮がある

江戸時代の測量技術

前述したように、当時の地図は精度を欠いており、200kmの仮想の直線を引くというのは想像もつきません。
ナスカの地上絵を描くのに棒と紐による拡大図法を用いたという説が有力ですが、描けるのは数百mが限界です。

東照宮の建設当時、道具は何を使ったのでしょうか。江戸時代初期には南蛮由来の測量術も学ばれており、測量の道具はあります。

https://www.cbr.mlit.go.jp/tenjyo/jimusyo/publication/pbl_tell/pdf/22.pdf

太陽から、真の東西南北はわかり、北極星もあります。江戸時代には方位磁石があるので、それを使えば測量の道具を使い、人海戦術で仮想の直線は引けそうです。例えば、正確に距離が測れるのであれば、真東と真北の距離から直角三角形の斜辺を計算することができるでしょう。あくまで、とても正確な距離を測れるという条件となりますが。0.5度でも角度が違うと200km先では、まったく違う方向に行ってしまいます。これほどの精度の仮想の線を引けても、当時の地図はそこまで正確ではないのも謎です。

明智平の先に

日光東照宮と明智寺を結んだ先に久能山東照宮があるなら、日光東照宮から日光にある明智平を結んでみるとどうでしょう。明智平も元々は開いた土地という意味で、「明地」と呼ばれていたのを天海が明智平に変えたという説があります。

明智平は広い面積があり、どの地点を明智平とすべきか難しいですが、明智平付近を結んだ線の先には天橋立が参道とされる元伊勢の籠神社があります。

そして、久能山東照宮から静岡浅間神社(天海が住んでいた玄陽院がある)を結んだ線の先には籠神社につながります。天海の「天」つながりでしょうか。また、カゴメ唄をはやらせたのは天海であり、カゴメ唄は籠神社が発祥だとする説があります。余談ですが、出雲大社の本殿の中にある御神体は西を向いており、本殿から東に線を引くと籠神社につながります。

明智光秀が天橋立の近くの智恩寺で連歌会に招かれたという記録はありますが、残念ながら籠神社とのつながりはわかっていません。

静岡浅間神社と久能山東照宮以前に久能山にあった補陀落山久能寺はどちらも秦氏により建立されており、元々つながりがあったのかもしれません。徳川家の松平家は賀茂氏・秦氏の末裔とする説もあります。賀茂神社は二葉葵を神紋とし、徳川は三つ葉葵を家紋とします。

明智平
静岡浅間神社
静岡と日光からのラインが籠神社につながる
籠神社

結局、天海が行ったのか? 違うのか?

ここまで、地図で各東照宮のつながりを見てきました。調べてみると、天海が言ったとされる、行ったとされるで、出典が見つからないものもたくさんあります。何でも天海のせいにされすぎている感もあります。一体、天海とは何者なのでしょうか? 後編は天海についての記事になります。

参考文献

・秩父三十四ヶ所札所めぐり観音霊場巡礼ルートガイド改訂版 メイツユニバーサルコンテンツ

後編はこちら
KAMUYAI編集部
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本質を突いた、長く読まれる記事を目指します。

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