ホーム歴史東照宮に見え隠れする明智光秀 後編

東照宮に見え隠れする明智光秀 後編

「俗氏の事人の問ひしかど、姓名も行年も忘れていざ知らず、一度空門に入りぬれば、何にもあれ知りてよしなしとて、のたまはざりければ、その実知りがたし。」

ーー『胤海記』
前編はこちら

前篇では日光東照宮と久能山東照宮をつなげたライン上に浮かぶ明智寺を見ました。

天海は江戸の都市計画においても、北東の鬼門に上野寛永寺、裏鬼門の南西に増上寺を置いたとされます。日本の歴史上でこれほど、地図をセットに結界や四神相応などが議論された人物はいないのではないでしょうか。

天海とはどのような人物だったのでしょうか。徳川家康と知り合った後半生は諸書に記されていますが、前半生は謎に包まれています。
『孝亮宿祢日次記』から、天文5年(1536年)に生まれ、亡くなったのは107歳と推定されます。天海の弟子が記した天海の伝記『東源記』『諶泰記』『胤海記』では、陸奥国会津郡高田の郷出身であり、蘆名氏の出自とされますが、定かではありません。
http://www.kotono8.com/wiki/%E5%A4%A7%E5%83%A7%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E6%B5%B7%E8%80%83%E7%95%B0#.E5.A4.A9.E6.B5.B7.E3.81.AE.E5.87.BA.E8.BA.AB.E5.90.84.E8.AA.AC

大正時代に出版された天海の伝記『大僧正天海』によれば、一部の考証家が天海を明智光秀の後身とし、山崎の合戦で敗れた光秀は出家して僧となり、徳川家康に仕え、豊臣家を滅ぼして恨みを晴らしたという奇説を唱えるものがいるとしています。

果たして前編で見た明智寺を含め東照宮に見え隠れするものは天海=明智光秀を示すものなのでしょうか。

天海=明智光秀説の根拠

天海=明智光秀説のさまざまな根拠をご紹介します。

  • 徳川家康と天海は初対面で旧知の仲のように二刻もの長時間親しく語り合ったとされる。
  • 「関ヶ原合戦図屏風」(関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵)には「南光坊」と書かれた鎧で身を固めた人物が描かれている。戦経験のある明智光秀だから軍師として出陣していたのだ。
  • 天海は日光東照宮の近くで、中禅寺湖や華厳の滝が見える平らな場所を「明智平」と名付けた。
  • 三代将軍徳川家光の乳母春日局は光秀の家臣である斎藤利三の子である。公募で乳母となった経緯はおかしい。
  • 徳川家光の「光」は「光秀」からとられたという。日光東照宮輪王寺には天海が家光を名付けたときの直筆の紙片が残っており、折りたたむと光秀と読めるようになっている。
  • 横河にある比叡山文庫の資料「横河堂舎並各坊世譜」の「長寿院」の項には「権大僧都の是春、俗名は光秀」と比叡山で修行した光秀の足跡が残っている。是春は会津出身で既に亡くなっていた随風と入れ替わったという。
  • 比叡山には「慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀」と刻まれた石灯籠が現存している。光秀が慶長20(1615)年まで生きていた証拠となる。
  • 江戸崎不動院の開山は土岐氏であり、光秀は土岐氏の傍流であるため、住持(院主)として入山した。
  • 秩父札所34所の9番は明智寺、13番は慈眼寺。もともと明地正観音、壇の下と呼ばれていたのに、天海が改名させた。
  • 東照宮のひな形である秩父神社には武士と僧侶の2体の像があり、両者に桔梗紋がついている。武士と僧侶は武士の明智光秀が僧侶の天海になったことを表す。
  • 東照宮の陽明門を守る木像に桔梗紋が入っており、鐘楼のひさしの裏にも桔梗紋がある。
  • 西国33か所、坂東33か所、秩父33か所、天海が明智寺(9番札)を加えて100か所にした。坂東9番は都幾山 慈光寺。都幾は土岐、慈光は「慈」眼大師天海と「光」秀の頭文字を表す。
    西国9番は興福寺南円堂で天海ゆかりの寺。十三権者を表す西国13番札所は石光山石山寺で、光秀の坂本領内の寺。興福寺南円堂の「南」と石光山石山寺の「光」で「南光」坊天海をさす。
    坂東13番 金龍山 浅草寺(浅草観音)は、徳川家康により祈願所に定められた。慈眼大師天海の進言もあったとされる。浅草寺は昭和24年まで天台宗。天海は天台宗の僧であり、中興開山の慈覚大師は「慈」の文字を持つ。

いかがでしょうか。いろいろな説はあるものの、確定できる根拠は残念ながら乏しいです。もちろん、明智光秀=天海説が本当なら、天海は正体を隠そうとするわけで根拠が少ないのも当然と言えるかもしれません。

「光」や「慈」の漢字が使われているというのも、ポピュラーな漢字であるため、強い根拠とはなりえないように思えます。

日光東照宮の陽明門にある桔梗紋

Photo by Wally Gobetz

日光東照宮の陽明門を守る木像の脚にある桔梗紋は根拠としてよく挙げられますが、明智光秀の桔梗紋ではなく、木瓜紋だと言ってよいでしょう。

桔梗紋
織田木瓜紋

秩父神社の彫刻

秩父神社にいる武士と僧侶ですが、写真で分かる通り木瓜紋です。中国の人物や神仙などの彫刻もあり、武士と僧侶というより仙人のように思えます。また、恵比寿像にも木瓜紋がついているように見えます。
https://www.syo-kazari.net/sosyoku/kentiku/chichibu/chichibu1.html

秩父神社の彫刻(僧侶?)
秩父神社の彫刻(武士?)


木瓜紋は袴でポピュラーとはいえ、3体の彫刻に木瓜紋があるのは多いように感じます。とはいえ強い根拠にはできないでしょう。

なぜ天海は明智光秀であることを明かさなかった?

仮に天海が明智光秀、あるいはゆかりの人間だとするなら、正体を堂々明かせばいいのではと思ってしまいます。天海ほどの権力を持っているなら、明智光秀の正当性を唱えることも可能だったはずです。豊臣秀吉は『惟任退治記』を書かせ、自身の正当性を示したといいます。江戸時代になって『明智軍記』が書かれるのは天海の死後であり、1688~1702年頃です。
光秀の家老・斎藤利三の娘は徳川家光の乳母となった春日局が採用されており、時代的にも問題なかったでしょう(明智光秀の血脈を徳川家に取り入れたいなら、春日局でなくても明智光秀の娘を探すのではだめなのでしょうか)。
織田信長に謀反を起こした他の武将として、荒木村重がいます。謀反が失敗すると毛利氏のもとへと亡命し、信長の死後、豊臣秀吉に召し抱えられています。荒木村重は茶人として名を馳せました。

また、天海は顔をさらして堂々と表に出ている点を指摘すべきでしょう。明智光秀=天海を隠したいなら表には出ないように立ち回るのではないでしょうか。天海は家康の命を受けて京都で上皇と天皇との仲を取り持つなど、外交を行っています。有力者との仲介斡旋、宗教関連の訴訟・争論にも関わり、幕府内でも飛び抜けた権力を持つようになります。

天海の身長は180センチ以上あったとされ、当時の平均身長を上回っています。明智光秀の身長は史料に記されていないようですが、当時の平均身長であったなら、160cmほどと推定されます。

天海の前半生

天海の前半生については謎が多いですが、伝記では織田信長の比叡山攻めの後、武田信玄に招かれ甲州に住んでいたとされます。

天海僧正は45歳のときに川中島の戦いを山の上から見物し、武田信玄と上杉謙信が一騎打ちを見たと江戸城内で上杉家家臣に語ったとされます。武田信玄が床几に座り、団扇で上杉謙信の太刀を受けた(講談でよくある図)と上杉家の横田甚右衛門が語ったところ、信玄と謙信が御幣川へ乗込み、互いに馬上にて太刀打ちをしたのをこの目で確かに見たと天海は語ったそうです。史料の信憑性については疑問があるものの、天海の譲らない姿勢は逆に真実味を感じさせます。

武田信玄(左)と上杉謙信(左)の像

和歌山県内の旧家で見つかった、川中島の戦いを描いた屏風絵では両雄が川の中で太刀で斬り合う構図となっています。

https://www.chunichi.co.jp/article/278462

和歌山県内の旧家で見つかった、川中島の戦いを描いた屏風絵。天海の主張した描写に似ている

天海が武田に仕えていた時代は、明智光秀が織田信長に仕えていた時代に重なります。天海が明智光秀であることを隠したいなら、武田家に仕えていたという話はあまり好ましくないでしょう。なぜなら、徳川家康は武田滅亡後、武田家家臣を多く召し抱えているからです。徳川家に仕えるなら、嘘がばれてしまう危険性も高まります。

足利学校は軍配師を生んでいた

一説では天海は足利学校出身だとされます。小早川隆景、鍋島直茂、直江兼続には足利学校出身の軍配師がいました。足利学校では古典の読み方を学べ、中国の兵法などの書籍を読むことができました。史料は不確かながら、関ケ原に鎧を着用した天海が出陣していたというのはあり得ることかもしれません。

『関ヶ原合戦屏風』には「南光坊」という武将が描かれている

ちなみに天海所用とされる鎧は、他の武将の鎧よりもかなり派手です。
https://www.hieizan.or.jp/archives/4919

江戸崎不動院の住持となった天海

天海が江戸崎不動院の住持となれたのは、天海=明智光秀が土岐氏だからという簡単な理由とは考えにくいです。伝記によれば、同族の江戸崎城主の蘆名盛重(義広)が天海を迎えたためでした。蘆名盛重がまったく見知らぬ人間を住持に迎えると考えにくく、伝記によれば、蘆名盛重は会津時代に天海を知っていたようです。武田信玄の甲府にいた天海が蘆名家の16代当主・蘆名盛氏に呼ばれ、黒川城の稲荷堂の別当を任されました。天海は10数年会津にいたことになります。

蘆名盛重が伊達政宗に敗れて、常陸に逃れるときも、随風(天海)は鎧を身に着けて蘆名盛重を守ったとされます。このような経緯があったから、蘆名盛重は天海を信頼して江戸崎不動院の住持にしたのなら納得できます。天海=明智光秀であるなら、会津で随風になりきらなければならず、かなりの難易度でしょう。

史料で天海が現れるのは喜多院に入り、この江戸崎不動院の住持となった時代となります。それ以前は長楽寺にいたとされます。長楽寺では世良田東照宮を境内に建てています。

天海は陰陽道に通じていた?

天海は陰陽道にも通じていたとされますが、どこで学んだだのでしょうか。中世において僧侶が陰陽師を兼任していたケースもありますが、東照宮を結ぶラインを見る限り、相当な知識が必要に思われます。
実は東照宮建設プロジェクトには陰陽師の専門家達も加わっており、天海はプロデューサー的役割だったと推定されます。
徳川家康は陰陽道の二大宗家である土御門・賀茂(幸徳井)を配下にし、江戸の都市計画に参画させたとされます。
中井正清は法隆寺西里村出身の大工で、陰陽道に精通していたとされます。中井正清は14歳で徳川家康に登用されて、伏見城、駿府城、江戸増上寺、久能山東照宮、日光東照宮など多くの建築に関わっています。

天海も明智光秀も書状を書いていることから、何回か筆跡鑑定が行われています。筆跡は似ているという結果から、似ていない、血縁の者だったのではなどの鑑定結果もあり、結論を出すのは難しそうです。
http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-394.html

平将門の結界?

今回調べるにつれ、江戸に張り巡らされた平将門つながりの寺社のように、明智光秀も呪術的に用いられているのではないかと思いました。

平将門は謀反を起こし、関東を占領し「新皇」を自称しました。しかし、将門追討軍との戦いで討ち死にしてしまいます。平将門は日本三大怨霊の一人となります。怨霊を使うのはどうかと思ってしまいますが、江戸を政治の中心にするうえで平将門を使えば強力な結界を築けると考えられたのでしょう。天海は神田明神などに江戸の守護神として、平将門を奉祀します。将門が信仰した妙見菩薩は北斗七星です。

築土神社所蔵の平将門像
妙見菩薩

日光東照宮にも妙見信仰が見え、秩父神社も妙見菩薩を祀っています。

将門の身体の一部や身につけたものを祀る神社ーー鎧神社、水稲荷神社、筑土八幡神社、神田明神、将門塚、兜神社、鳥越神社ーーをつなげると北斗七星になるとされます。

鎧神社、水稲荷神社、筑土八幡神社、神田明神、将門塚、兜神社、鳥越神社をつなげると北斗七星が浮かぶ


北斗七星を呪術的に用いるのは他の地域でも見られます。
『新撰陸奥国誌』によれば、坂上田村麻呂は津軽にて北斗七星の形に並ぶ神社群を配したとされます。事実、乳井神社、鹿島神社、岩木山神社、熊野奥照神社、猿賀神社、浪岡八幡宮、大星神社をつなげると北斗七星の図が浮かび上がります。

『江戸の陰陽師』(人文書院)によれば、日光東照宮においても、星の宮、本宮、東照宮本社、開山堂、二荒山神社、慈眼堂、大猷院を結ぶと北斗七星になるそうです。

水稲荷神社が平将門の身体に関連しておらず、鳥越神社の先の北極星の位置(足立区あたり)に何もない、平将門関連の神社は他に多くあり、北斗七星になるよう恣意的に選んでいるのではという批判もできるかもしれません。

宮元健次氏(作家・建築家)によれば、平将門の身体に関連した神社は主要街道と堀の交点にある城門に隣接しているとします。

「首塚は奥州道へと繋がる大手門、胴を祀る神田神社は上州道の神田橋門、手を祀る鳥越神社は奥州道の浅草橋門、足を祀る津久土八幡神社は中山道の牛込門、鎧を祀る鐙神社は甲州道の四谷門、兜を祀る兜神社は東海道の虎ノ門に置かれました。」

https://shuchi.php.co.jp/article/1389?p=3

鐙神社や兜神社は四谷門、虎ノ門から結構離れているように感じますが、興味深いです。

仮に平将門が江戸時代に近い時代に生きていたなら、天海は平将門のご落胤説が語られたかもしれません。

江戸の五色不動・六地蔵

天海は江戸の鎮護のために、四神相応に対応した不動明王像を設置したとされます。中央を示す黄色を加えて五色不動といいます。

目黒不動、目赤不動、目白不動、目青不動、目黄不動

六地蔵は下記にあります。
品川寺、太宗寺、眞性寺、浄明院、東禅寺、霊巌寺
五は陽、六は陰となります。

他にも浅草寺、江戸城本丸、日枝神社を結んだライン、寛永寺、江戸城本丸、増上寺を結んだラインがあるとされます。しかし、寛永寺、江戸城本丸、増上寺のラインは江戸城本丸は通りません。寛永寺、神田明神、将門の首塚のラインは正確に通るため、意図的と言えるかもしれません。

結局のところ、陰陽道などを極めた人間でないと完全に理解するのは難しいのかもしれません。

明智光秀も平将門と同様な使われ方か?

これまで平将門関連の結界を見てきました。謀反を起こしながら、無念にも敗北し、亡くなった明智光秀も結界の一部として使われていると思えるのです。明智光秀のつながりが各東照宮で見え隠れするのもそれが理由なのではないでしょうか。

久能山東照宮は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑が祀られています。日光東照宮も明治期になって源頼朝・豊臣秀吉が祀られるようになりました。しかし、明治以前にも山王権現は豊臣秀吉、摩多羅神は源頼朝だという説がありました。

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000159631

しかし、残念ながら、日光東照宮に織田信長は祀られていません。

思いつくのが、日光東照宮の陽明門の随神像にある織田木瓜紋です。随神像は警護の役割として門に置かれます。織田木瓜紋は京都八坂神社、津島神社など、須佐之男命を祀る神社の御神紋です。門を守る上で須佐之男命の御神威にあやかり、魔除けにしていると言えるかもしれません。羽黒山の左随神にも同じ紋があります。ただ、徳川の東照宮で織田木瓜紋を使うということはやはり、織田信長の木瓜紋を意識していたと思われます。

久能山東照宮と日光東照宮のどちらも三英傑を祀るなら、三英傑を祀る2社の間に三日天下で有名な明智光秀を象徴する明智寺を置くというのは歴史的に面白い配置です。さしずめ、天下人の道といったところでしょうか。

明智光秀=天海説はどこまで遡るか

それでは江戸時代に明智光秀=天海を唱えた人はいなかったのでしょうか。
江戸時代、天海の家紋は蘆名氏の出ということで丸に二引両を用いたことから、同じ家紋の足利将軍の末裔だと噂されていたようです。

天海の弟子達もさすがに天海を明智光秀だと疑った者はいなかったようです。

明智光秀=天海説が登場してくるのは大正時代、おそらく遡れたとしても明治時代でしょう。明治になってから、写真が普及するにつれて、明智光秀の家紋が日光東照宮にあると思われるようになった、雑誌や新聞の普及でそういった俗説が広がりやすくなった可能性が考えられます。

実は江戸時代には明智光秀=○○説があったのです。

明智坊

江戸時代、少なくとも京都において、明智光秀が明智坊(みょうちぼう)という延暦寺の修行僧の生まれ変わりという伝説が流布していました。
宝永2(1705)年に観光された浮世草子『御伽人形』によると、昔、延暦寺に明智坊という修行僧がいたが、寺法に背いて比叡山を追われました。明智坊はこれを恨んで、自殺し、弟子に「遺体を比叡山の見える方角に向けて葬る」よう遺言しました。彼の魂は明智光秀に転生し、信長の命を受け、延暦寺を焼き払ったそうです。

『御伽人形』の20年前に観光された『雍州府志』(1688年刊)には「明智坊塔」について記載されており、『御伽人形』の話の原形が書かれています。

『雍州府志』でも同様に、明智坊が寺法に背いて延暦寺を追われ、松尾(西京区)の北にある山に寓居しました。「死んだらここに葬り、自分をかたどった石像をつくって比叡山の方角に向けて建ててくれ。死後、必ず比叡山を滅ぼしてみせる」と弟子に遺言したそうです。
『雍州府志』は「織田信長が比叡山を焼き討ちしたとき、明智光秀が部将となったが、光秀は明智坊の生まれ変わりだったのだろうか。怪しむべし」と結んでいます。

「明智坊塔」は『都名所図会』(1780年刊)に「明智坊塔石像」として「松尾社の北一町ばかりにあり。明智坊は山門の碩徳なり、大衆と諍論におよび、山門を退きて此所に閑居す」と紹介されています。

『三州奇談』(1750年代?刊)によれば「座って見上げている像でなにかを睨みつけているよう」な像だとされます。
https://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7t/km_01_308.html


京都の上今宮のあたりに明智坊という石像がある。座して見あげ、睨みつけたる体なり。子供が戯れて、「明智坊、明智坊、こっち向け明智坊」といって向きを変えると、一夜でまた元の所を向く。伝え聞くに、これは比叡山にていわれありて殺された者であり、常に比叡山を睨んでいるという。明智光秀が山門を焼いたのは、この明智坊の生れ替わりだという。奇怪な話だ。

三州奇談卷之四 像有神威

明智坊がいつの時代に生きていたのかは不明です。しかし、人々の記憶に残っていたということは、比叡山焼き討ちが起きたのは明智坊が亡くなってから、そこまで時間が経っていない可能性があります。

明智光秀の比叡山焼き討ち

江戸時代には明智光秀は比叡山焼き討ちに大きく関わっていたことが知られていたようです。実際、明智光秀は比叡山焼き討ちで功績をあげ、撫で斬りを含め積極的に動いていたことが、文書で明らかになっています。1584年の『横川中堂勧進状』では明智光秀こそ焼き討ちの張本人としています。

『信長公記』の描写のように、比叡山焼き討ちで僧侶は皆殺しにしていたように想像しがちです。しかし、比叡山は広大であり、完全に取り囲むことは不可能で、逃れた僧も多くおり、焼き討ちを免れた寺もありました。比叡山の一部関係者は焼き討ちを明智光秀からの事前情報で知って避難していた可能性もあるそうです。
https://omigaku.org/fundamental/wp-content/uploads/2022/03/kiyou11_02-wada.pdf

明智坊は比叡山への恨みを晴らすのに織田信長ではなく、明智光秀に転生したというのがポイントでしょうか。現代でも明智という名前を見ると、明智光秀を結びつけたくなる誘惑にかられますが、江戸時代でも同様だったようです。

明智光秀の祖父は明智坊?

明智光秀の出自は謎に包まれています。『兼見卿記』には明智光秀は美濃に親類がおり、その親類は城普請をするほどの身分でした。有力な説は土岐明智氏を出自とするものです。この場合、明智光秀の祖父は明智頼典とされます。

この明智頼典は父の土岐頼尚から親子の縁を切られ、廃嫡となり、出家して「明智坊」と名乗り、比叡山西塔堂行堂に住んだといいます。

https://note.com/sz2020/n/na44ba5325a13

また、明智頼典は明智光継と同一人物とされます。もし、明智光秀の祖父である明智頼典が比叡山を恨んで死んだ明智坊であったなら、話としては出来過ぎですが、比叡山焼き討ちに積極的に関わった理由も説明できるかもしれません。

明智坊、明智光秀、そして天海

明智光秀は比叡山での功績により、明智光秀は近江国志賀郡を与えられ、比叡山領の管理も任されます。

比叡山復興の機運を作ったのも明智光秀が本能寺の変で織田信長を討ったことによるものでした。織田信長が討たれて5ヶ月後には僧侶達が復興に駆けつけたそうです。

そして、比叡山再興を決定的にしたのが天海でした。1607年に比叡山の探題執行に任ぜられ、根本中堂や大講堂の再建にのりだします。

そうなると坂本に天海の墓があるのも当たり前に思えます。比叡山の方角に向けて葬らせ、必ず比叡山を滅ぼしてみせると言ったのが明智坊なら、比叡山焼き討ちで功績をあげたのが明智光秀であり、比叡山の麓である坂本を治めました。天海は比叡山の中興の祖として、比叡山を守るべく、もう同じことが起きないように坂本に墓があるのはおかしくはないでしょう。

琵琶湖側から見た比叡山 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hieizan_biwakogawa.JPG

江戸は東京として発展していった

徳川家康が関東に移封を命じられたとき、江戸は湿地と沼地だらけで廃れており、江戸城には石垣もなく、とても本拠にふさわしい土地だとは思われませんでした。発展していた小田原や鎌倉に本拠を置くことできたものの、「四神相応」を調べた天海は江戸こそ本拠地にふさわしいと勧めました。大規模の工事が進められ、当時の世界でもずばぬけた100万の人口を抱える大都市へと成長します。
江戸は東京へと変わり、震災、戦災もありましたが、世界でも有数の大都市へと発展し、日本の首都として重要な機能を果たしています。江戸からここまで天海が仕掛けたグランドデザインのおかげなのかもしれません。

参考文献

俊英 明智光秀 才気迸る霹靂の智将 学研プラス刊
江戸の都市計画 講談社

江戸の陰陽師 人文書院

京都異界に秘められた古社寺の謎 ウェッジ

http://www.kotono8.com/wiki/%E5%A4%A7%E5%83%A7%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E6%B5%B7%E8%80%83%E7%95%B0

https://www.syo-kazari.net/sosyoku/kentiku/chichibu/chichibu1.html

https://www.kahaku.go.jp/research/publication/sci_engineer/download/32/BNMNS_E3205.pdf

https://www.minato-rekishi.com/pdf/shiryokandayori-066.pdf

KAMUYAI編集部http://kamuyai.com
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