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漫画の巨匠たちが過ごしたトキワ荘
トキワ荘といえば昭和の著名な漫画家――手塚治虫、寺田ヒロオ、藤子不二雄(安孫子素雄、藤本弘)、石森章太郎(石ノ森章太郎)、赤塚不二夫ら――が住んでいたことで有名です。日本の漫画の黎明期の巨匠たちが青春を過ごした聖地として、当時の話は『まんが道』をはじめ、多くの作品が出ています。
また、手塚治虫がアニメの制作会社「虫プロダクション」を設立したのも有名だと思います。では、手塚治虫の漫画に影響を受けて、トキワ荘に入った安孫子素雄、藤本弘、石森章太郎たちもアニメの制作会社をつくっていたのはご存知でしょうか? 今回は第二のトキワ荘ともいえる「スタジオゼロ」をご紹介します。
スタジオゼロの設立
「作ろうよ アニメーションを」
「昔からやってみたかったんだ」
「雑誌漫画とちがって、音や動きがくわわるんだもんね」
「でも大変なんだろ 漫画映画は」
「一秒に二十四枚の絵がいるんだって?」
「個人じゃムリだ やっぱり会社を作らなきゃ」
「カイシャ!? おれたちが作るの!?」
「おーい、だれか会社の作りかた知っているか」
『藤子・F・不二雄大全集 スタジオ・ボロ物語』より
1963年(昭和38年)5月1日、鈴木伸一、石森章太郎、つのだじろう、角田喜代一(つのだじろうの兄)、安孫子素雄、藤本弘によりスタジオゼロが設立されました。社名は何もないところから始めるということでスタジオゼロという安孫子の提案が採用されました(本稿は登記上の商号スタジオゼロの表記で統一)。
資本金は50万円。角田喜代一以外の5人で10万円ずつ出し合いました。社長は置かないつもりでしたが、石井会計事務所の石井より説得され、あみだくじで決めることに。最初は鈴木伸一が社長となりました。以後2年交代制で、つのだじろう、藤本弘、石森章太郎、安孫子素雄の順番となりましたが、1970年に会社が解散することになり、安孫子だけは社長になれませんでした。
社屋は中野の八百屋の倉庫で月1万2,000円。あまりにボロなので、スタジオボロと藤本弘が揶揄しました。重役ばかりではおかしいので漫画家志望の伊藤光雄を平社員になってもらいました。赤塚不二夫は苦しい台所事情で出資金10万円を出すのが難しく、参加は約1年後となりました。
最初の企画
皆好きな肩書で名刺をつくり、会社ごっこ的に名刺を配りまくったそうです。鈴木伸一社長はおとぎプロを辞め失業手当をもらっていて、まもなく切れるため、仕事をしなければなりません。重役たちと1人の社員は『ロケットロビン』の企画を立て、東宝テレビ部に持ち込みますが、あっさりボツとなりました。
しかし、この東宝からテレビ企画の依頼を受け、『怪獣島』のシノプシスをつくりました。企画料は2万円でした。他にも短編アニメ、企画をつくりましたが、収入は微々たるもの。毎月鈴木以外の役員が貸付でお金を出し合うことになりました。
ミドロが沼
1963年6月、『鉄腕アトム』の「ミドロが沼の巻」の制作を受けることになります。『鉄腕アトム』に関われるのは光栄とばかりに引き受けます。外注することで、虫プロに夏休みが出せるとのことでした。期限は1ヶ月、原動画料は20万円。全重役とも漫画で非常に忙しいなか動画を作成しなければなりません。しかも、アニメのプロは鈴木社長だけで、基礎を教えながら制作していくことになります。編集者からは怒られながら、7月末締め切りに遅れながらも完成しました。当時は作画監督もおらず、個性の強い漫画家たちによりそれぞれ違うアトムが描かれてしまいました。手塚治虫は「なかなか風変りで、おもしろくできたんじゃないの」と言ったそうです。虫プロダクションの一部スタッフは修正のため夏休み返上をしました。その後虫プロダクションから依頼が来ることはありませんでした。
今考えると、豪華メンバーによる作画崩壊でした。クオリティはどうであれ、スタジオゼロはこの時点で毎週放送のテレビアニメを制作した日本で2番目のアニメ制作会社となりました。
雑誌部の誕生とオバケのQ太郎
失敗してもテレビアニメに深入りしていったのは、トキワ荘の時代に戻った会社ごっこが楽しかったからだと言います。しかし、会社設立して8ヶ月となっても業績は芳しくありませんでした。重役は毎月の貸し出しをすることに。そこで、雑誌部を新たにつくり、スタジオゼロで雑誌漫画を書くことになります。動画部は鈴木社長、つのだじろう、角田喜代一。雑誌部は安孫子素雄、藤本弘、石森章太郎となりました。
雑誌部の1回目の仕事は『週刊少年サンデー』の『オバケのQ太郎』となりました。第1話のアイデアは出勤途中の小田急線で決めたそうです。1964年1月に連載が始まった『オバケのQ太郎』はQ太郎を藤本、正ちゃんを安孫子、ゴジラなどを石森が担当した合作となりました。9回の連載で終了後、再開を求める手紙が殺到し、再開することに。この『オバケのQ太郎』がスタジオゼロでの大きな転機だったかもしれません。
この年、動画部ではあまり仕事はありませんでしたが、雑誌部では、この年の夏、赤塚不二夫がスタッフを連れてスタジオゼロに入ってきました。つのだじろうの『ブラック団』、石森の『サイボーグ009』、藤子不二雄の『忍者ハットリくん』(1964年11月)、『怪物くん』(1965年2月)が連載開始となりました。
1965年5月、『オバケのQ太郎』のアニメ企画が持ち込まれます。スタジオゼロが受けたのはパイロットフィルムまでで、能力的な問題により、シリーズで受けることはできませんでした。
1965年8月『オバケのQ太郎』のアニメが放送されました。この時代は漫画のアニメ化が増加していましたが、SFヒーローのジャンルが多かったのです。日常生活ギャグのアニメ化は異色でした。『オバケのQ太郎』のアニメは1回目から視聴率30%を越える大ヒットとなりました。商品化権使用料は莫大でした。当時の分配は制作会社25%、原作者25%、残りは著作権管理窓口の小学館と広告代理店の博報堂で分けました。
おそ松くんのアニメ化と引っ越し
1965年9月、『おそ松くん』のアニメ化を持ちかけられた赤塚は、アニメ『おそ松くん』の制作の参加を提案します。大きなビルへの引っ越しも必要なことを話し合いました。
1965年10月には市川ビルに引っ越し、スタジオゼロも人材不足ながら、アニメ『おそ松くん』の制作に参加します。
引っ越し先ではにぎやかなもので、連日のように徹夜をしていたそうです。4階にアニメのスタジオ、3階は赤塚不二夫のフジオ・プロ、藤子不二雄のフジコ・プロ、つのだじろうのつのだプロが入りました。入り口を入って左側にフジコ・プロ、右側にフジオ・プロ、奥につのだプロがありました。
仕事をするより、トランプやルーレットの遊びが多かったようです。フジオ・プロのメンバーが銀玉鉄砲で撃ち合いをして、フジコ・プロのスタッフに玉を当ててしまい、温厚な藤本を怒らせたことがありました。それでも、赤塚らは部屋から出て撃ち合いを続けたそうです。また、通路に座り込んで麻雀もしたそうです。ベッドが足りないので、椅子、机、床で寝ていました。
年末は4階を使って盛大な忘年会が恒例となっていました。1965年の年末は仮装の宴会「歳末的狂騒的愉快的大宴会」を行いました。
1965年12月、赤塚は『まんが海賊クイズ』に出演するようになり、週1で収録に通うようになりました。この番組は黒柳徹子の民放初出演番組であり、NET(現:テレビ朝日)で放送されました。NETはその系列局である毎日放送制作のアニメ版『おそ松くん』を放送していました。
動画部も順調に仕事が増え、1966年にはアニメ『レインボー戦隊ロビン』を制作。1967年『パーマン』、1968年『怪物くん』を制作する頃には社員は80名近くの会社に成長します。
社長も藤本に代わり、スタジオゼロはこの頃が最盛期でした。この頃、税金対策も兼ねて、社長の送迎用にリンカーン・コンチネンタルを購入します。あまり乗られず、駐車場に置きっぱなしとなったそうです。
1969年8月、石森章太郎が社長となります。テレビ漫画路線が終幕するにつれ、動画部も暇になっていきました。アニメ制作会社が構造的に抱える人件費の問題がこの時代からあったのでした。
もしスタジオゼロが設立されなかったら
漫画の歴史でトキワ荘の存在は注目されがちです。トキワ荘が無かったら、漫画の歴史は大きく変わっていたように思います。ではスタジオゼロが設立されなかったら、どうなっていたでしょう? 『オバケのQ太郎』だけでなく、漫画のメディアミックスやテレビ業界とのつながりなど、スタジオゼロの影響力は無視できないように思います。
そして解散へ
1970年の暮、スタジオゼロは解散することに決まりました。会社ごっこも潮時だと考えたのです。備品を売り、重役への借金にあてたら差し引きゼロとなったそうです。
石森章太郎は、トキワ荘から引っ越した漫画家たちがスタジオゼロを設立したのは「青春(ユメ)よもう一度があったから」だと言います。トキワ荘時代の連帯感をみんなで何か一つのことをすることで味わいたいと。
トキワ荘やスタジオゼロでの彼らの情熱はたくさんの人たちを惹きつけてやみません。
参考文献
ゼロの肖像 「トキワ荘」から生まれたアニメ会社の物語 講談社
藤子不二雄A 藤子・F・不二雄 二人で少年漫画ばかり描いてきた
章説トキワ荘の青春 中央公論新社
トキワ荘最後の住人の記録 東京書籍